于強・中国作家協会会員への在外公館長表彰及び記念講演会を実施しました
令和4年2月28日
2月20日、赤松秀一総領事・大使は、于強・中国作家協会会員に対して、日中相互理解及び友好親善の促進に対する多大な貢献に敬意と感謝を表し、在外公館表彰を授与しました。
于強氏は30年以上に亘り、前半は安徽省馬鞍山市政府の幹部、後半は特に小説家としての立場で、日中交流に尽力してこられました。于強氏は1970年に北京大学を卒業後、安徽省の農場に下放され、その後、安徽省馬鞍市で勤務されました。1983年に馬鞍市外事弁公室主任になってからは、馬鞍市と群馬県伊勢崎市の友好都市提携締結を実現したり、残留孤児の訪日や帰国を支援するなど、日本との民間交流の発展に大きく貢献されました。また、馬鞍市は李白が最期を迎えた地であることから、日本との詩吟交流にも取り組まれました。
1987年、于強氏はその文才を発揮して、自身が支援した中国残留孤児の方の経験を題材として『風媒花』という小説を著し、日本でも翻訳され話題となりました。その後も、日中交流をテーマとする著作を4作発表しています。
表彰式後に行われた記念対談では、痴三文化電媒有限公司董事長であり、于強氏の友人でもある章坤良氏が相手役を務めました。
対談の中で、于強氏は「風媒花」、「異国未了情」等を執筆するに至ったきっかけや経験など、作品の背景について語りました。于強氏は、自身の作品の特色は国を超えて存在する人と人の間の大きな愛だと言います。例えば「海啸生死情」(日本語題名『津波、命がけの絆』)は、東日本大震災の際に中国人20名の従業員を救い自らは命を落とした佐藤水産の専務のエピソードに取材した作品で、災害に直面した際の人間の情が描かれています。于強氏は創作活動以外にも、馬鞍市日中李白詩研究会、馬鞍市国際詩吟会、上海日中詩吟会など、自身が馬鞍市や上海で取り組んだ日中交流活動についても紹介しました。
于強氏は30年以上に亘り、前半は安徽省馬鞍山市政府の幹部、後半は特に小説家としての立場で、日中交流に尽力してこられました。于強氏は1970年に北京大学を卒業後、安徽省の農場に下放され、その後、安徽省馬鞍市で勤務されました。1983年に馬鞍市外事弁公室主任になってからは、馬鞍市と群馬県伊勢崎市の友好都市提携締結を実現したり、残留孤児の訪日や帰国を支援するなど、日本との民間交流の発展に大きく貢献されました。また、馬鞍市は李白が最期を迎えた地であることから、日本との詩吟交流にも取り組まれました。
1987年、于強氏はその文才を発揮して、自身が支援した中国残留孤児の方の経験を題材として『風媒花』という小説を著し、日本でも翻訳され話題となりました。その後も、日中交流をテーマとする著作を4作発表しています。
表彰式後に行われた記念対談では、痴三文化電媒有限公司董事長であり、于強氏の友人でもある章坤良氏が相手役を務めました。
対談の中で、于強氏は「風媒花」、「異国未了情」等を執筆するに至ったきっかけや経験など、作品の背景について語りました。于強氏は、自身の作品の特色は国を超えて存在する人と人の間の大きな愛だと言います。例えば「海啸生死情」(日本語題名『津波、命がけの絆』)は、東日本大震災の際に中国人20名の従業員を救い自らは命を落とした佐藤水産の専務のエピソードに取材した作品で、災害に直面した際の人間の情が描かれています。于強氏は創作活動以外にも、馬鞍市日中李白詩研究会、馬鞍市国際詩吟会、上海日中詩吟会など、自身が馬鞍市や上海で取り組んだ日中交流活動についても紹介しました。
対談の最後には、自身の創作のアイデアや、今後の執筆計画について語ってくれました。質疑応答では観客からたくさんのコメントや質問が呈され大いに盛り上がりました。